プラグマティズム(実用主義)という立場がある。

 

真理や知識の有用性に重きを置き、理論や概念の有効性は、その実際の効果や結果に基づいて評価されるべきという主義である。正しいかどうかよりも、それが実際に役に立つかどうかに重点を置く考え方だ。

 

例えば、高名なシェフが考え出したレシピが理論的には完璧であっても、食材が手に入りにくかったり、調理が難しくて手軽に作れないとすれば、プラグマティズムの観点から価値が低いことになる。

 

このことを説明するために、「女子校うんち事件」という話をしたい。

 

断っておくが、大したオチはない。

 

僕の家の近所に女子校がある。住宅街に位置する上品なお嬢様が通う学校で、事件は起きた。

 

1学期期末テストを終えた時期のことである。夏休み前の学校は期待と興奮に満ちていた。生徒たちは友達と休みの計画を話し合っていた。廊下には笑い声が響き、校門では元気にはしゃぐ生徒が見られた。期待と少しの寂しさが交差する特別な時間だった。やがて下校の時間になり、生徒たちも帰宅した。

 

夕方前のまだ明るい時間に、生徒がいない学校で、ある教師が廊下にうんちが落ちていることに気がついた。

 

翌日、職員会議が開かれた。「廊下でうんちをした者がいる」と。平和な学校をざわつかせるには十分なネタだ。

 

ある教師が「犬が侵入してうんちをしていったのだろう」と言った。しかし、理科の先生は「それならば成分を分析して確かめる必要がある」と言った。

 

科学とは、客観的で検証可能な知識を追求する学問である。

 

分析の結果、人間のものだとわかった。理科の先生は、うんちが人間のものであったことに少し満足げであった。

 

しかし、私は思う。廊下に落ちているうんちが人間のものであることを確認することに、プラグマティズムの観点から意味があるのだろうか。犬が侵入してしていったのではダメなのであろうか?

 

人間のものだとわかった後にすることは、「誰のものか」ということになる。それをはっきりさせることに有益性が感じられるのか。

 

大半が10代の女性が生活する場所で、廊下のうんちが誰のものかを調べるのはあまりにも野暮ではないだろうか。

 

プラグマティズムは、正しいかどうかよりも、それが実際に有益かどうかに重点を置く考え方である。うんちが人間のものであったとわかって、どれだけの人が得をしただろうか。

 

結局、調査の結果、うんちの犯人がわかった。学校の改装工事をしていた男性が、女子校なので男子トイレが少ないことに困り、廊下でしてしまったそうだ。

 

科学の力により真実を知ることができた。しかし、犬の落とし物だということにしておいても良かったのではないか?

 

科学とは、人を幸せにするために存在すると僕は信じたい。